AncV1R欠損雌マウスにおけるフェロモン検知障害と異常な性行動

ネズミにおける ANCV1R 遺伝子欠損のフェロモン知覚および性行動への影響に関する研究

背景

哺乳類では、フェロモン (pheromone) が社会的および性行動を制御する重要な化学シグナルとして機能します。このフェロモンの検知は、嗅覚系に属する鋤鼻器 (vomeronasal organ, VNO) によって行われ、VNO 内の鋤鼻感覚ニューロン (vomeronasal sensory neurons, VSNs) が特定の鋤鼻受容体 (vomeronasal receptors, VRs) を発現し化学シグナルを感知します。この情報は、副嗅球 (accessory olfactory bulb, AOB) を経由して扁桃体 (amygdala) や視床下部 (hypothalamus) に伝達され、本能的な行動を引き起こします。一方で、古代鋤鼻受容体である ANCV1R (Ancient Vomeronasal Receptor Type-1) は、脊椎動物間で高度に保守的な進化的特徴を持ちながら、その具体的な機能については未知の部分が多いです。これまでの研究では、ANCV1R 遺伝子の偽遺伝子化 (pseudogenization) が VNO の機能退化と密接に関連していることが示されています。本研究の目的は、ANCV1R 欠損が雌ネズミの性行動およびフェロモン信号の知覚にどのように影響するかを、行動・神経生理・分子レベルで明らかにすることです。

出典論文

この研究は Hiro Kondo、Tetsuo Iwata、Koji Sato らによって行われ、日本の東京科学技術研究所 (Institute of Science Tokyo)、東京大学 (University of Tokyo)、およびドイツのアーヘン工科大学 (RWTH Aachen University) などが所属機関に含まれています。論文は 2025 年 1 月 6 日に『Current Biology』誌 (DOI: 10.1016/j.cub.2024.10.077) に発表され、オープンアクセス形式で公開されています。


研究の概要

1. 研究対象と遺伝子ノックアウトモデル

研究チームは、CRISPR-Cas9 技術を用いて ANCV1R 遺伝子を欠損させたマウス (ANCV1R−/−) 系統を作成しました。免疫組織化学分析により、ANCV1R タンパク質が完全に欠失していることを確認しました。また、鋤鼻感覚ニューロンの分化マーカー遺伝子を in situ ハイブリダイゼーション (ISH) により解析した結果、ANCV1R の欠損が VSN の分化や生存に影響を与えないことが示されました。

2. 行動解析

(1) 性行動

雌マウスの性行動に対する ANCV1R の影響を評価するため、性成熟した雌マウスと雄マウスが接触した際の行動を観察しました。通常、雄マウスは雌マウスに対して嗅覚や特有の乗駕行動 (mounting behavior) を示し、正常な雌マウスはこれを受け入れる傾向があります。しかし、ANCV1R−/− 雌マウスでは顕著な性拒絶行動 (sexual rejection behavior) が観察されました。これには、逃避、直立抵抗、乗駕の妨害などが含まれます。

(2) フェロモンの選好性

雌マウスを雄マウス尿と雌マウス尿の両方と接触させ、どちらを優先的に嗅ごうとするかを評価する二選択試験 (two-choice preference test) を実施しました。その結果、正常な雌マウスが雄マウス尿を好むのに対し、ANCV1R−/− 雌マウスはどちらにも明確な選好性を示さないことが明らかとなりました。このことから、ANCV1R がフェロモンの感知に不可欠であることが示唆されます。

(3) 母性行動

さらに、授乳期の ANCVI1R−/− 雌マウスは侵入者に対する攻撃行動 (母性攻撃、maternal aggression) が大幅に減少することが明らかになりました。

3. 生理学および神経情報の伝達解析

(1) VNO の電気生理学的応答

電鋤鼻図 (electro-vomeronasogram, EVG) 記録を用いて、ANCV1R−/− 雌マウスが雄マウス尿や特定のフェロモン (例: β-エストラジオール-3-硫酸) に対して示す電気生理応答が顕著に低下していることを確認しました。これを更に蛍光染色法およびリン酸化リボソームタンパク質 S6 (pS6) を指標とする解析で補足し、ANCV1R 欠損が化学配体への感受性を低下させることを明らかにしました。

(2) 中枢神経活動

即時初期遺伝子 c-fos の in situ ハイブリダイゼーション法を用い、フェロモンに関連する脳領域の神経活動を分析しました。雄マウス尿を暴露された際、ANCV1R−/− 雌マウスの AOB 顆粒層および内側扁桃体 (MeA) における神経活動が顕著に低下していました。一方で、雄マウスとの直接的な接触では、ストレスに関連する脳領域、例えば外側中隔核 (LS) の神経活動が高まることが観察されました。同時に、血中の副腎皮質刺激ホルモン (ACTH) レベルが有意に増加しました。


主な研究結果

  1. ANCV1R のフェロモン知覚における重要性 ANCV1R は、VNO における感覚ニューロンのフェロモン応答を調節する重要な役割を果たします。その欠損は、雄マウス尿や性的フェロモン(例: 外分泌腺分泌ペプチド1 [ESP1])に対する感受性を著しく低下させます。

  2. 性行動の障害 ANCV1R−/− 雌マウスは、雄マウスを適切な交配相手として認識できず、異常な性拒絶行動を示します。

  3. ストレス反応の増加 雄マウスとの接触は、ストレス関連脳領域(LS、MeA 後部)の神経活動増加を引き起こし、全身的なストレスホルモン (ACTH) の上昇を伴います。

  4. 中枢神経回路のフィードバック変化 フェロモン信号の弱化が、中枢神経系の増幅されたストレス反応や適応的補償的変化を引き起こしている可能性があります。


研究の意義と限界

科学的意義

  1. 本研究は、進化的に高度に保存された ANCV1R 遺伝子がマウスのフェロモン知覚および性行動に重要な調節効果を持つことを初めて明らかにし、哺乳類の化学感知および進化の理解に貢献します。
  2. フェロモンシステム内の特定分子が性別認識や生殖行動に及ぼす影響を特定し、VNO 機能に対する知見を拡張します。

応用可能性

ANCV1R の役割に基づき、本研究は社会不安や性別認識障害のような行動障害に対する生物学的療法の開発に役立つ可能性があります。

研究の限界

  1. ANCV1R が感覚ニューロンの感度に影響を与える分子メカニズムは完全には解明されていません。
  2. この研究はマウスモデルに焦点を当てており、他の種に対する適用可能性はさらなる検証が必要です。

結論

ANCV1R は、マウスのフェロモン知覚システムにおいて重要な要素であり、その欠損は雌マウスにおける雄マウス関連化学信号の検出能力を低下させ、異常な性拒絶行動やストレス反応を引き起こします。これらの現象は、ANCV1R が哺乳類の社会的および性行動において欠くことのできない役割を果たしていることを示しており、フェロモン経路に関するさらなる研究への糸口を提供します。