バレレン酸は、ミトコンドリアエネルギー代謝における複数の基質の利用を促進することにより、病的心筋肥大を軽減する

学術的背景紹介

病理的心筋肥大(Pathological Myocardial Hypertrophy, PMH)は、心臓がさまざまな病理的刺激に対して適応的に反応する現象であり、その長期的な進行は最終的に心不全(Heart Failure, HF)を引き起こします。PMHの病態メカニズムについて一定の理解が進んでいるものの、死亡率は依然として高く、HFを予防するための新たな治療ターゲットや戦略が求められています。エネルギー代謝の乱れはPMHの主要な原因の一つとされ、薬物によって代謝を調節することが新しい治療法として注目されています。これは心臓の効率を向上させ、エネルギー不足を軽減し、機能不全の心臓を改善することを目指しています。

心臓のエネルギー代謝において、ミトコンドリアの酸化的リン酸化は心臓の収縮を維持する主要なATP源です。脂肪酸(Fatty Acids, FAs)は心臓で最も利用される基質であり、ATP需要の70%を供給します。しかし、PMHの進行中にはエネルギー供給と需要のバランスが崩れ、脂肪酸酸化(Fatty Acid Oxidation, FAO)が減少し、糖解が増加します。さらに、最新の研究では、ピルビン酸-乳酸軸(Pyruvate-Lactate Axis)がPMHの進行において重要な役割を果たすことが示されています。ピルビン酸の酸化が減少し、乳酸が過剰に排出されると、PMHが悪化します。したがって、心臓が複数の基質を利用する能力を改善することは、HFの進行を遅らせるのに役立つ可能性があります。

ペルオキシソーム増殖因子活性化受容体-α(Peroxisome Proliferating Activated Receptor-α, PPARα)は、エネルギー代謝を調節する重要な核転写因子であり、HFの治療における有望なターゲットとされています。PPARαは、心筋細胞における脂肪酸輸送およびミトコンドリア脂肪酸酸化に関与する遺伝子の発現を直接調節します。さらに、PPARαは糖解を負に調節し、糖解関連遺伝子をダウンレギュレートします。現在、PPARαアゴニスト(例:フィブラート系薬剤)は高コレステロール血症や高中性脂肪血症の治療に用いられていますが、単剤療法では胃腸障害、睡眠障害、筋肉痛などの副作用を引き起こす可能性があります。そのため、より安全なPPARαアゴニストの開発が重要です。

バレレン酸(Valerenic Acid, VA)セイヨウカノコソウ(Valeriana Officinalis L.)の主要な活性成分であり、心血管系を調節する可能性が示されています。これまでの研究では、セイヨウカノコソウ抽出物が脂質過酸化を抑制して心筋虚血再灌流障害を改善し、心不全による不整脈のリスクを低下させることが報告されています。さらに、VAには降圧作用もありますが、PMHに対する治療効果とそのメカニズムはまだ明確になっていません。これに基づき、本研究ではVAのPMHに対する保護作用とそのメカニズムを探ることを目的としています。

論文の出所

本研究は北京中医薬大学(Beijing University of Chinese Medicine)の研究チームによって行われ、主な著者にはTiantian LiuXu ChenQianbin Sunなどが含まれます。論文は2025年にJournal of Advanced Research(第68巻、241-256ページ)に掲載されました。研究は中国国家自然科学基金(プロジェクト番号:82222075, 82374420, 82174364, 82174215)の支援を受けています。

研究のプロセスと結果

1. VAのISO誘導PMHに対する緩和作用

研究ではまず、イソプロテレノール(Isoproterenol, ISO)誘導のマウスPMHモデルを構築しました。マウスは偽手術群(Sham)、モデル群(ISO)、低用量VA群(0.5 mg/kg)、高用量VA群(2 mg/kg)、およびフィブラート系薬剤(Fenofibrate)陽性対照群に分けられました。超音波心エコーを用いて心機能を評価した結果、VAとFenofibrateは共にISO誘導の心肥大および心機能障害を有意に改善しました(P < 0.05)。同時に、VA治療はISO誘導の心筋細胞肥大および心筋線維症を有意に抑制しました。

細胞レベルでの実験では、ISO誘導のH9c2心筋細胞肥大モデルを使用し、VAが1-10 μMの濃度範囲でISO誘導の細胞肥大を有意に抑制し、心肥大マーカー(ANP、BNP、MYH7)の発現を低下させることが示されました。

2. VAのPPARα経路によるエネルギー代謝調節

透過型電子顕微鏡による観察では、ISO刺激により心筋細胞のミトコンドリア構造が破壊されましたが、VA治療によりミトコンドリア構造が改善され、脂質滴の蓄積が減少しました。VAはまた、ATP含有量を有意に増加させ、血漿中の非エステル化脂肪酸(NEFA)トリグリセリド(TG)低密度リポタンパク質コレステロール(LDL-C)のレベルを低下させました。さらに、VAはISO誘導の糖解を抑制し、乳酸レベルを低下させました。

ネットワーク薬理学実験では、PPARシグナル経路がVAの抗肥大作用を発揮する主要な経路である可能性が示唆されました。VAはPPARαおよびその下流の脂肪酸酸化関連遺伝子(CD36CPT1AEHHAHDなど)の発現を有意にアップレギュレートし、糖解関連遺伝子(ENO1PDK4など)の発現を抑制しました。さらに、VAは炎症性因子(IL-6、IL-1β、TNF-αなど)を抑制することで、PMHをさらに緩和しました。

3. VAのPPARαへの直接結合による活性化作用

分子動力学シミュレーション(Molecular Dynamics, MD)および表面プラズモン共鳴(Surface Plasmon Resonance, SPR)実験を通じて、VAがPPARαのF273部位に結合することが明らかになり、そのKD値は5 × 10⁻⁷ Mであり、VAがPPARαの直接リガンドとして作用する可能性が示されました。

4. VAのピルビン酸-乳酸軸の調節

PPARαノックダウン(si-PPARα)により、H9c2細胞中の乳酸含有量が有意に増加しましたが、VA治療により乳酸含有量が有意に減少し、ピルビン酸の酸化が促進されました。さらに、VAは乳酸脱水素酵素A(LDHA)およびモノカルボン酸トランスポーター4(MCT4)の発現を抑制し、ピルビン酸-乳酸軸のバランスをさらに改善しました。

結論と意義

本研究により、VAがPPARα経路を活性化することで脂肪酸酸化を促進し、糖解を抑制し、ミトコンドリアのエネルギー代謝を改善することを通じてISO誘導の病理的心筋肥大を著しく緩和することが示されました。VAは新たなPPARαアゴニストとして、PMHおよびHFの治療において潜在的な応用価値を持っています。さらに、VAはピルビン酸-乳酸軸を調節し、ピルビン酸の酸化利用を促進することで、心臓のエネルギー代謝異常の治療に新たな視点を提供しました。

研究のハイライト

  1. 初めてVAがPPARαを活性化してPMHを緩和することを発見:VAはPPARαに直接結合し、脂肪酸酸化関連遺伝子をアップレギュレートし、糖解を抑制して心臓のエネルギー代謝を改善します。
  2. VAのピルビン酸-乳酸軸に対する調節作用を解明:VAはLDHAおよびMCT4を抑制し、ピルビン酸の酸化を促進することで、心臓のエネルギー代謝異常をさらに改善します。
  3. 研究手法の革新性:ネットワーク薬理学、分子動力学シミュレーション、およびSPR実験を組み合わせることで、VAの作用メカニズムを包括的に解明しました。

その他の価値ある情報

本研究は、VAのさらなる開発と臨床応用のための理論的基盤を提供します。同時に、PPARαアゴニストの設計に新たな参考として重要な科学的および応用的価値を持っています。