ヒト血管細胞の器官型アトラス
人体血管系の解読:多臓器単一細胞トランスクリプトーム研究が血管細胞の多様性を総合的に解明
背景概要
人体の血管系は生命維持の中心的な構成要素であり、内皮細胞(Endothelial Cells, ECs)と周壁細胞(Mural Cells)から成り、全身の臓器系に渡っています。その機能は血液の配送やガス・栄養の交換に留まらず、組織の恒常性維持、免疫調整、血管新生、さらには高血圧、癌、炎症性疾患、糖尿病といった病態においても重要な役割を果たします。血管内皮細胞は臓器や血管の種類ごとに多様な機能と分子特異性を発揮しています。例として、血液脳関門の遮断機能や脾臓での赤血球濾過機能が挙げられます。しかし、全臓器レベルで血管タイプごとの分子特性を系統的に分類する研究は、現在も十分に進んでいません。
こうした背景のもと、本研究では血管細胞の組織特異性や分子多様性を明らかにするための包括的な探索が行われました。この研究は以下のような科学的疑問に答えることを目指しています。血管の内皮細胞および周壁細胞はさまざまな組織でどのように特異性を発揮するのか?その分子調節およびシグナル経路はどのように機能しているのか?この研究は基礎生物学研究にとって重要であるだけでなく、血管関連疾患の治療に向けた新たな標的と戦略を提供する可能性を秘めています。
研究出典
本研究は Imperial College London と University of Cambridge の研究チームによって共同で行われ、通信執筆者には M. Noseda と S. Tataridas が含まれています。関連論文は2024年12月の《Nature Medicine》(volume 30, 3468–3481)にて発表され、タイトルは《An Organotypic Atlas of Human Vascular Cells》(ヒト血管細胞の臓器特異的アトラス)です。この論文のDOIは https://doi.org/10.1038/s41591-024-03376-x です。
研究プロセス
データ統合と品質管理
研究チームは19の人体組織・臓器から得られた単一細胞トランスクリプトームデータを統合しました。サンプルは67名のドナーから得られた166個のサンプルに基づき、厳密な品質管理とデータクレンジングを経て約800,000個の単一細胞を対象としました。これらのデータは、単一細胞変分推論アルゴリズム(Single-Cell Variational Inference, scVI)を用いて統合され、統一マニフォールド近似と投影(UMAP)により可視化解析が行われました。
初期段階では、血管内皮細胞と周壁細胞が他の細胞タイプ(線維芽細胞、免疫細胞、平滑筋衛星細胞など)と区別される形で明確に分類されました。内皮細胞の特徴的な遺伝子にはCDH5、VWF、PECAM1が含まれ、周壁細胞の特徴遺伝子としてはPDGFRBとACTA2が挙げられました。
多臓器における血管細胞分類と特徴研究
研究では42種類の血管関連細胞状態が分離され、さらなる分子マーカーに基づいて動脈、静脈、毛細血管、リンパ内皮細胞のサブタイプだけでなく、特定臓器に特化した内皮細胞タイプとしても分類されました。以下は、それぞれの主な発見および研究プロセスの詳細説明です:
- 動脈内皮細胞の層状特性: 動脈内皮細胞は3つの状態に細分化され、大血管由来の大動脈および冠状動脈内皮細胞(aorta_coronary_ec)と、広範に分布する2種類の小口径動脈細胞群(art_ec_1 と art_ec_2)を含みます。このうち、aorta_coronary_ecグループは硫酸化酵素-1(SULF1)や細胞外マトリックス関連遺伝子(例: ELN、SLRPs)を豊富に発現しており、高圧環境への適応能力を示唆しています。
軌跡推論分析を通じて、大動脈から小動脈、さらに毛細血管内皮細胞への段階的な移行プロセスが特定され、特定遺伝子(例: NEBL)の発現がこの移行過程でピークに達していることが判明しました。このことは、動脈内皮細胞が臓器間で共有の特徴を持ちつつも、動脈軸に沿って細かい差異を持つことを示唆しています。
静脈内皮細胞の免疫活性化特性: 静脈内皮細胞は4つのサブタイプに分類され、そのうちven_ec_1は多くの臓器に分布し、免疫関連遺伝子ACKR1とPOSTNを発現しています。一方、サブタイプven_ec_2は免疫接着分子(例: ICAM4、SELE)を豊富に発現し、免疫細胞のリクルートにおいて重要な役割を果たすと考えられます。さらに、脳と肺に特化した静脈内皮細胞(brain_ven_ec、およびpul_ven_ec)は、認知症関連遺伝子SH3RF3など、より高い組織特異的遺伝子を発現しています。
リンパ内皮細胞の組織特異的分布: リンパ管内皮細胞(LECs)は7つのサブグループに分類され、そのうち1つのリンパ毛細血管(cap_lec)は複数の臓器で確認されました。これには前癌転移マーカーとして知られるTFF3が含まれており、この発見は癌転移リスク予測の潜在的バイオマーカーとして注目されています。
脾臓小梁内皮細胞(Littoral EC)の複合的表現型: 脾臓小梁内皮細胞は静脈内皮細胞とリンパ内皮細胞の複合的な遺伝子プロファイルを示し、ACKR1とPROX1といったマーカーを発現しています。これらの細胞は赤血球の貪食に関連する機能を持ち、転写因子NR5A1が脾臓血管発生における重要な役割を担うと予測されました。
毛細血管内皮細胞の機能特化: 心臓と筋肉に存在する毛細血管内皮細胞(myo_cap_ec)は、脂肪酸代謝に関連する遺伝子(例: FABP4、MEOX2)を豊富に発現しており、一方で脳の毛細血管内皮細胞(blood_brain_barrier_ec)は、血液脳関門特有の遺伝子(例: MFSD2A、SLC38A3)を発現しています。
ターゲット薬剤予測と細胞間シグナル解読
研究ではDrug2Cellソフトウェアを使用して薬物ターゲットを予測し、P-セレクチン(SEL)などの分子が複数の血管内皮サブタイプに影響を及ぼす可能性が示されました。また、NotchやWnt信号経路が、異なる血管タイプの内皮細胞と周壁細胞間の重要なやり取りの一部であり、組織や血管タイプごとの特異的機能を反映していることが明らかになりました。
主な結論と研究価値
本研究は、多臓器統合血管細胞アトラスの構築により、血管細胞の多様性と機能特化に関する理解を大幅に進展させました。この発見は、基礎生物学研究だけでなく、高血圧、癌、炎症、代謝疾患といった血管機能障害に関連する疾患の治療ターゲット研究にとって重要なリソースを提供します。具体的には、臓器をまたぐ血管分子特性、特定組織における分化状態、潜在的な薬物ターゲットが明らかにされました。これらの情報は、疾患病理学研究における健康細胞の参照テンプレートとしても使用可能です。
研究のハイライト
方法論の革新性: 研究は単細胞変分推論アルゴリズム(scVI)を統合し、階層的クラスタリングと空間トランスクリプトミクスによる検証を組み合わせることで、複雑な生物データの解釈に技術的なサポートを提供しました。
データ総合性: 19の臓器と組織、42種類の血管細胞状態をカバーし、これまでで最も包括的な人体血管細胞アトラスを構築しました。
応用の展望: 医薬品ターゲット予測で実用性が示され、今後の疾患治療や薬剤開発の科学的根拠を提供しました。
研究チームはデータとリソースを https://www.vascularcellatlas.org/ にオープンアクセスとして提供しており、今後の科学者によるさらなる応用と拡張が期待されています。