分子解像度におけるヒト胎盤の空間的多オミックスランドスケープ

ヒト胎盤の分子解析の新しい章:空間マルチオミクス研究における画期的進展

研究背景と課題

胎盤は妊娠中に最初に発達する胎児器官であり、妊娠の成功と胎児の健康な発達を維持する上で非常に重要です。しかし、その重要性にもかかわらず、胎盤の発達過程や分子調節メカニズムについては、まだ十分に理解されていません。胎盤は、母胎間の物理的および栄養交換の要となるだけでなく、免疫調節や代謝適応を通じて、急速に成長する胎児の健康な発育を可能にしています。

近年では、シングルセル技術(例えば、シングルセルRNAシーケンシング(scRNA-seq))や空間オミクス解析技術が胎盤の多様性や細胞間相互作用の研究に用いられてきましたが、現在の胎盤研究にはいくつかの大きな課題が残っています。例えば、分子分解能の不足、単一データ次元(トランスクリプトミクスまたはエピジェノミクスのどちらか一方に限定)の研究への偏り、そして母胎接合部(maternal-fetal interface, MFI)の調節メカニズムに関する空間解析の体系的欠如が挙げられます。このような課題を解決することは、胎盤の発達、母胎疾患(例えば子癇前症や妊娠糖尿病)、さらには腫瘍のような挙動を理解するために重要です。

こうした背景の下、研究チームは胎盤の分子構造を探求する独自の研究を開始しました。彼らは、空間的に解像されたシングルセルの多次元マルチオミクス技術を用いて人間の胎盤の詳細な分子マップを作成し、初期胎盤発達の調節メカニズムを明らかにすることを目指しました。

論文の出典と研究チーム

本研究の論文は、医学分野のトップジャーナルである《Nature Medicine》(Volume 30, December 2024)に発表され、タイトルは「Spatial multiomic landscape of the human placenta at molecular resolution」とされています。この研究は、マサチューセッツ総合病院(Massachusetts General Hospital)、ハーバード医科大学(Harvard Medical School)、ブロード研究所(Broad Institute)、およびウィーン医科大学(Medical University of Vienna)などの複数の著名な研究機関からなる科学者チームによって行われました。この論文の責任著者は、Fei Chen博士、Sandra Haider博士、Jian Shu博士です。

研究プロセスと実験戦略

研究チームは、本研究で初期(妊娠6~11週)ヒト胎盤の分子構造を包括的に解析するため、シングル核トランスクリプトミクスとエピジェノミクスを統合し、空間情報技術を組み合わせた複数段階の探索を行いました。主な研究プロセスと技術革新は次のとおりです:

1. サンプル採取と前処理

研究チームは、合法的な妊娠中絶手術によって初期妊娠の胎盤サンプル(供給者8名、妊娠期間6~11週)を入手しました。胎盤サンプルは分割解剖され、即座に冷凍保存されて、その後の核分離、シングルセルシーケンシング、および空間解析のためのスライス作製に使用されました。

2. シングルセルマルチオミクスシーケンシング

研究ではシングル核RNAシーケンシング(snRNA-seq)およびシングル核クロマチンアクセシビリティシーケンシング(snATAC-seq)技術を採用し、36,456個の厳密な品質管理を通過した細胞核をシーケンスしました。これらの細胞は胎児由来(98.6%)と母体由来(1.4%)で構成されていました。細胞の遺伝子発現データとクロマチンの開放性データを統合することで、研究チームは主要な17の細胞サブタイプを識別し、さらに解析を行いました。この中には、絨毛栄養膜細胞(villous cytotrophoblast, vCTB)、侵入型栄養膜細胞(extravillous trophoblast, EVT)、合胞体栄養膜(syncytiotrophoblast, STB)、内皮細胞、線維芽細胞、そして胎児マクロファージ(ホフバウアー細胞)が含まれます。

3. 空間マルチオミクス技術

組織構造内で遺伝子発現および染色体のアクセシビリティの具体的な分布を明確にするため、研究チームは以下の3つの補完的な空間技術を導入しました: - Slide-tags:プローブタグとハイスループットシーケンシングを組み合わせ、切片化された組織内の単核のトランスクリプトームおよびエピジェノミクスの空間的分析を実現。 - Starmap in situ sequencing(Starmap-ISS):RNAに基づく空間的原位置シーケンシングを活用して、1,001個の高度に変動する遺伝子を胎盤内で捕捉。 - Starmap in situ hybridization(Starmap-ISH):48個の重要な遺伝子を厳選し、胎盤の独特な領域での遺伝子の発現状況を解析。

3つの技術を統合することで、研究チームはシングルセルレベルの胎盤マルチ次元的空間解像マップを構築しました。

4. データ解析と計算による予測

無監督クラスタリングアルゴリズム、ChromVAR解析、差異アクセシビリティ計算、転写因子結合部位の予測を含む複数の解析ツールを用いることで、研究チームは規制クロマチン領域(domains of regulatory chromatin, DORCs)を特定し、栄養膜細胞の分化に関連する潜在的な調節ネットワークを描きました。また、CellRank法を利用して、クロマチンの開放性動態から栄養膜細胞の起点および終点状態を推定しました。

研究結果と主な発見

1. 細胞多様性と分化軌跡

研究では、胎盤内で栄養膜細胞が幹細胞状態(vCTB progenitors)から侵入型EVTおよび機能的なSTBへと分化する軌跡を再現しました。主要転写因子(FoxP1、TP63など)の発見により、分化調節ネットワークの複雑なメカニズムが解明されました。

2. クロマチン調節と遺伝子ネットワーク

研究では、43,622個の遺伝子発現に有意に関連するクロマチン開放ピーク部位を特定し、1,000種類以上のDORCsを特定しました。これにより、栄養膜細胞特異的遺伝子(例:MYCN、FOXF1)がいかにして精密に制御され、機能と分化の能力を維持しているかが判明しました。

3. 新しい遺伝子および機能要素の特定

チームは、栄養膜侵入性および免疫調整に関連する重要な新しい遺伝子(例:ERVH48-1、ANXA1)を多数発見しました。ERVH48-1は、融合プロセスを阻止して栄養膜の初期機能を調整する可能性があります。

4. 空間特異的な信号交換

空間解析技術により、母体組織(例:線維芽細胞)と胎盤栄養膜細胞の間のシグナル伝達経路(例:PTN-SDC4経路)が明らかになり、これらの経路が妊娠における免疫微小環境にどのように適応しているかが示されました。

研究の結論と意義

本研究では、空間的なマルチオミクス技術を利用して、初期ヒト胎盤の分子解剖地図を包括的に作成し、胎盤機能の調整について前例のない分子的理解を提供しました。この成果は、胚の初期発達に対する理解を深めるだけでなく、母胎健康関連疾患(例:子癇前症および妊娠不全)の分子診断や介入のための潜在ターゲットを提供する可能性があります。

さらに、研究は腫瘍侵入および免疫逃避に類似した胎盤行動の生物学的基盤を明らかにし、胎盤と癌の間の潜在的な関連を探る理論的枠組みを確立しました。

研究のハイライトと今後の方向性

  • 技術革新:3つの空間技術の統合が解像度とデータカバレッジの深度を向上
  • 新しい遺伝子の発見:ERVH48-1およびFOXP1の機能解析は、胎盤の複雑性の重要性を示唆
  • 多層的な分析:クロマチンから遺伝子発現、さらには空間定位まで、胎盤の分子調節を包括的に解析

今後の研究課題として、これらの重要な遺伝子と調節ネットワークの機能検証、異なる種や疾患モデルにおける胎盤空間解析が挙げられます。それにより、母胎医学および癌研究の交差領域でさらなる進展が期待されます。